
今回の会議参加者
大石陽 | たかし |
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考察者 | 質問者 |








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『すべてがFになる』キャラクター名復習
名前 | 呼び方 | 特徴 |
---|---|---|
西之園萌絵 | 萌絵 | ボブカットのお嬢様女子大生 |
犀川創平 | 犀川先生 | N大学の工学部建築学科准教授 |
真賀田四季 | 四季 | 天才 |
『すべてがFになる』のアニメ第11話『無色の週末』を解説&考察
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『すべてがFになる』全体を通して
大:さて、今回で無事『すべてがFになる』全11話が終了したね。
た:原作と比べてどうなの?
大:今までの考察でも触れたけど、展開が少しカットされているところ、登場人物の描写に変更があるところ、あと、時代背景が変更されてガジェットが現代風になっているところなんかはあるけど、全体としてはほとんど原作通りじゃないかな。
『無色の週末』も原作の最終章のタイトルだし。
真賀田四季の語る事件の真相が異なる、登場人物には15年前の事件について明かされない、という差異はあるけどね。
た:それって、結構大きい違いじゃない?
大:うん、確かにそうだけど、現在の事件の真相については、『四季 秋』で後日に真賀田四季が語る内容が反映されているわけだから、オリジナルの改変というわけではない。
もちろん、真賀田四季の語る真相が真実なのかどうか、という疑問は残されているけど。
15年前の事件については、アニメでは新道裕見子が語るくらいで、萌絵たちはあまりそちらには触れないね。
原作では、真賀田四季が仮想空間での会談のときに、15年前の事件についても話すんだけど。
た:どうしてカットされたんだろう?
大:まあ、事実じゃないからだろうね。
原作の段階では、裕見子の証言と四季の告白は矛盾せずに成立して、『四季 夏』でひっくり返されるんだけど、アニメの場合は『四季』シリーズの内容が含まれるから、その時点で矛盾してしまうんだ。
そうなると、矛盾を防ぐためには真実を告げるか、語らないか、ということになる。
そこで語らないことを選択したのも、私が『真賀田四季の語る言葉が真実ではない可能性』を高めているのではないか、とちょっと思っているんだけど。
ま、そこはあくまでは私の個人的な想像だけどね。
たかし君的にはどうだった?
た:うーん、あれ? と思うところはあったけど、面白かったよ。
途中から真賀田四季がどう考えても何か怪しいなーとは思ってたけど。
原作ファンとしてはどうだったの?
大:『四季』シリーズが入っていることで、真賀田四季により強くスポットが当たっているから、犯人についてはわかりやすくなっていたと思う。
逆に、原作と同じ情報量だと、アニメとしては情報が少なすぎてしまうだろう。
私としては、もちろん真賀田四季の超越性、神秘性を薄めてしまう副作用はあったとけど、この改変自体は成功ではないかなと考えているよ。
全体としては満足かな。
ただ、四季の要素を入れたことで、先の展開のネタバレがちょっと含まれているからね。
この感じでシリーズを展開していくのは難しいだろうなあ。
た:なるほど……。
国枝の質問
大:さて、では11話の解説だ。
まずは国枝ファンには嬉しいアニメオリジナルシーン。
原作では、11章は犀川先生視点で、萌絵の動きはわからない。
萌絵からはメールで連絡が入っているので、研究室に顔を出さないことは犀川先生は気にしていなかったりする。
た:ちょっと薄情だなあ。
大:まだ学部生だしね。普通そんなに研究室には来ないっていうか……。
このあたりの、萌絵が犀川先生のしがらみになっているのではないか、という悩みも、『すべてがFになる』では触れられていない。
別の話で出てくるところだね。
た:国枝助教はなにしに来たんだろう?
大:単純に、食事に来たら萌絵を見つけたから、質問しに来た、ってだけだと思うよ。
た:そんな気軽に……。
大:国枝助教はそういう人だからね。
必要だと思ったらやる。必要だと思わないことはやらない。
遠慮もしないしごまかしもしない。差し入れのケーキは容赦なく食べる。
た:最後のはいったい……。
大:いや、本編で結構そういうシーンが多いから……。
だいたい、立ったまま手づかみで二口で食べきって、「ごちそうさま」だけ言ってさっさと仕事に戻るね。そういうイメージ。
だから、これは単純な疑問と、単純な感想だ。
「私の意見を言ってもいい?」と萌絵に確認したのは、珍しく相当気を使っているね。
た:あ、このシーン、萌絵が考えている間にいなくなってるんだよね。
これも何か意味があると思ってたんだけど……?
大:質問するという目的を果たしたからさっさと席に戻っただけだろうねえ。
もちろん、いなくなる国枝に声をかけられないくらい萌絵が考え込んでいる、ということではあるけどね。
国枝助教が無言で席を立っても、萌絵はお礼くらいは言うだろうから。
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犀川先生と真賀田博士
大:図書館で論文を探している犀川先生のところに、真賀田四季が訪ねてくるシーン。
ここは、一部省略されたり、地の文で犀川の考察として描写されるところが実際に発言されたり、といった違いを除けばだいたい小説の通り。
なにかわからないところはある?
た:だいたいわかんないんだけど、まずは生きているのが病気というのは?
大:文字通りに考えてもらえばいいよ。
例えばある一万年をとって考えてみれば、あるひとりの人間が生きている期間は、そうでない期間に比べて僅か、つまりイレギュラーだ。
人間という種に拡大して考えてみれば、今度はひとりの生というのは誤差になってしまう。
原作では真賀田四季は眠ることを例えにして、眠りが快で、起こされるのが不快であるのはなぜか、人は意識のない状態を求めているのではないか、赤ん坊が泣くのは強制的に意識を覚醒させられたからではないか、という話をしている。
た:な、なんか仏教の教えみたいになってきてない?
大:まあ、そんなようなものだよ。
ただ、四季は人間の意識を人間の中核をなすものだと考えているわけだから、だからといって生を終わらせることをよしとしているか、というと疑問だ。
犀川先生は、四季の矛盾も含めて、自己の存在を終わらせるという目的を持っていると推測して、四季もそのように応じたわけだけど、実際にはそれは違っていたわけだね。
た:なるほど。
大:このシーン、真賀田四季は警察が「あなたを警備している」と言っているけど、小説では「あなたを尾行している」となっており、「僕を尾行している? 知らなかった……」と犀川先生も言っている。
この改変はよくわからない。
警察が犀川先生と真賀田博士の接触を考慮していると思わせたくなかったのかもしれない。

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